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「海の駅から」⑬

1860(安政7)年2月26日、咸臨丸がサンフランシスコに入港した。38日間の太平洋横断航海だった。日本の遣米使節団を乗せたポーハタン号は、咸臨丸より12日遅れてサンフランシスコに到着した。

 ポーハタン号が遅れたのは、ホノルルに寄港して燃料の石炭を補給したためである。ポーハタン号は船体が大きく装備も重く、波と風の抵抗を強くうける。大時化の海の航海で、予定以上に燃料を消費してしまったのだ。暴風雨の激しさを物語っている。

 世界最大最強の軍艦と言われたポーハタン号が苦戦した大時化を、小さな咸臨丸が乗り切った。ブルック艦長と部下と万次郎のわずか12人で、猛り狂う荒海を克服したのだ。 

その見事な技術、勇気、チームワークを、咸臨丸に乗っていた日本人乗組員は、目の当たりにしていた。咆哮する大海原に翻弄される咸臨丸の中で、地獄の恐怖を味わいながら、自分たちの命がブルック艦長や万次郎たちの腕に委ねられている事実を、徹底的に知らされたはずである。

 だが咸臨丸に乗っていた日本人乗組員は、申し合わせたように口をつぐみ、事実を語ろうとしなかった。船乗りが船酔いや航海技術の未熟さをさらしてしまったふがいなさを、隠しておきたいのは理解できる。でも恩人ともいうべきブルック艦長や万次郎たちの卓越した操船技術への敬意や感謝は、素直に表すべきである。それが武士の精神であろう。

 だが事実を隠そうとしただけでなく、日本人乗組員だけで太平洋を横断したとする記述を、後世に残そうとしている。なぜそれほどまで事実を伝えることを嫌ったのだろうか。

 

 咸臨丸には木村摂津守、勝海舟、小野友五郎、福沢諭吉など、幕末や新政府誕生の動乱期に活躍し、歴史の変遷の立役者になった人物が乗っていた。その人たちにしてみれば、咸臨丸での一部始終が明らかになるのは、決して名誉なことではなかった。しかしそのことだけが、事実をありのまま伝えようとしなかった理由だったとは思えない。

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