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「海の駅から」⑭

咸臨丸の日本人乗組員のようすを、ブルック艦長が書き遺している。ブルック艦長を悩ませたのは、日本人乗組員の操船技術の未熟さよりも、規則を守らない、船内を清潔にしない、身分の低い万次郎の言うことを聞かないなどの行為だった。

 しかしその内容は決して悪意のあるものではない。むしろ好意的にとらえようと努力しているふしがうかがえる。その好意の背景にあるのは、万次郎に対する信頼や感謝であり、万次郎の同胞である日本人を非難するのをためらう心理があったのかも知れない。

 ブルック艦長は、江戸幕府や咸臨丸の士官たちにおもねるような立場にはいない。咸臨丸に乗船したのは、木村摂津守に頼まれたからだ。航海日誌も日々の出来事をありのままに記録すればいいだけである。

事実、日誌は客観的な視線で綴られている。それでも随所に万次郎への気遣いが出てくる。万次郎の技術と人柄に寄せるブルック艦長の信頼や思いやりが、伝わってくる。

 その航海日誌をブルック艦長は、「自分の死後50年間公開してはならない」と遺言する。遺族はその遺言を守り、日誌を封印する。そして、ブルック艦長が亡くなって50年後に、ブルック艦長の孫によって封印が解かれ、日誌は1960(昭和35)年に日本に引き渡された。

 この航海日誌で、咸臨丸の太平洋航海の全貌が初めて明らかになった。でもなぜブルック艦長は半世紀にわたる日誌の公開を禁じたのだろうか。

 その理由は、万次郎の存在しか考えられない。日誌の公開によって、万次郎の卓越した航海技術と、日本人乗組員の技術の格差が明らかになり、日本国内で万次郎が窮屈な立場になるのを心配したのも、理由の一つだろう。

 

だが、ブルック艦長がとくに万次郎の身を案じたのは、技術の格差への妬みや嫉みではなく、日本の開国に果たした万次郎の役割が明らかになって、新政府から万次郎が迫害されることだったのではないだろうか。

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