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「海の駅から」⑫

咸臨丸が巨大な暴風雨から抜け出したのは、浦賀を出航して10日目だった。海が天までせり上がり、一気に落下してくるような怒涛と狂瀾の中で、ブルック艦長の部下たちと万次郎が、必死に咸臨丸を操った。

 咸臨丸の航海図を見ると、大時化の中にいた10日間、真東に向かうコースを維持し、毎日確実に前進している。昼夜くまなしに荒れ狂う空と海のなかで、11人の米国人と1人の日本人が、冷静に操船し続けたのだ。

 日本人の乗組員はほとんど戦力にならなかった。嵐の海の恐怖と船酔いで萎縮してしまっただけでなく、外洋航海の知識と自覚を欠いていたからである。船上の業務を分担し合い、24時間体制で風と波と位置を観測して船を進める、航海の基本の「当直制度」を全く知らず、理解しようともしなかったのだ。

しかし、日本人乗組員の未熟さを責めても始まらない。幕府は1633(寛永10)年から鎖国政策を強化し、出国はおろか外海に出ることも、大型船の建造も禁止してきた。遠洋航海の出来る船乗りが育つ土壌がなかったのだ。

日本人乗組員にとって咸臨丸の経験は、新しい技術と文化との遭遇であり、即戦力にならなかったことを恥じることはない。日本人乗組員は、往路の後半からしだいに航海技術を覚え、復路の航海で技術を格段に向上させて帰国した。

その事実をありのまま伝えていれば、後世における咸臨丸の太平洋横断の意義と評価は、違っていたはずである。だが事実を伝えなかった。日本人乗組員が遠洋航海の知識と技術に乏しく、咸臨丸を実質的に操船したのは、11人の米国人と万次郎であることを隠してしまう。

隠しただけでなく、米国人の手を借りずに日本人だけで太平洋横断に成功したと、プロパガンダする。そのため史実が長い間にわたって歪められてしまう。

 

事実が明らかになるのは、ブルック艦長の航海日誌が、1956(昭和31)年に公開されてからである。

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