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「海の駅から」23

日本の遣米使節団を運ぶポーハタン号に随行する日本の船が、朝陽丸から観光丸そして咸臨丸に変更されたことは前述した。3隻ともオランダの造船所で建造された軍艦で、1855―58年の間に相前後して日本に就航している。

 いずれも3本マストで、朝陽丸と咸臨丸はスクリュー船、観光丸は外輪船である。外輪を回すのに強い力を必要とするため、エンジン馬力も全長も全幅も観光丸が一番大きい。

 朝陽丸と咸臨丸は、いわば双子の兄弟船でほぼ同サイズだが、全幅は咸臨丸の方が147センチ広い。ではなぜ最終的に、咸臨丸が随行艦に選ばれたのか。

 その理由は明らかにされていないけれど、船の構造や排水量にあったのではないだろうか。記録を見ると、船の長さが一番短い咸臨丸の排水量が一番大きく、朝陽丸、観光丸のほぼ2倍となっている。どうしてなのだろうか。草柳俊二さんにその疑問を解いてもらった。

 「当時、船のトン数表示は統一した基準がなかったので、この3隻のトン数が同じ基準のものか疑問です。でも、外輪船の観光丸は、蒸気機関の両側に外輪を回転させる設備がつくので、船体幅は大きくなる。さらに外輪船は河川や運河、湾の奥まで入り込めるように喫水を浅く造ってあり排水量が小さくなる。咸臨丸の船体幅は朝陽丸より2割ほど大きく、喫水も深いと考えれば、2倍の排水量の差になってもおかしくない」

 「ブルック艦長も万次郎も、幕府の軍艦で太平洋を横断するのは至難であることを判っていたはずです。咸臨丸が、外輪船より波の抵抗が少ないスクリュー船の構造であること、他の2隻より排水量が大きいなどを考えて、二人は幕府に咸臨丸を薦めたのだと思う。それが太平洋横断の成否を分けた非常に重要な選択になったような気がします」

 出港間近になって船が変更され、荷物の積み替えを命じられた水夫たちは、万次郎とアメリカ人が余計なことを言ったからだと、口々に二人を非難した。

 

しかし、排水量3765トンの最大最強の軍艦・ポーハタン号が、大苦戦したほどの嵐に遭遇したのだから、朝陽丸、観光丸では沈没していた可能性が高い。万次郎とブルック艦長の的確な判断が、咸臨丸の太平洋横断成功につながったのだが、その事実を明治政府も乗組員たちも後世に語り継ごうとしなかった。

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