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「海の駅から」⑪

 木村摂津守の意が通り、万次郎とブルック艦長らの咸臨丸乗船が決定した。

 〈このことは、自分たち日本人だけの力でこの壮挙をなしとげようとしていた随行艦の士官たちにとっては決して面白いことではなかった〉(『中濱万次郎』、中濱博)

 万次郎たちの乗船を快く思わなかったのは、士官たちだけではなかった。ほかの乗組員たちも「よそ者の力は借りない」と、露骨に反発した。

 日本人としての矜持や気負いと言えば格好がいいけれど、実体は、外洋航海の難しさや怖さを知らない者の虚勢だった。幕府が選んだ海軍エリートの士官から水夫にいたるまで、文字通り“大海を知らない蛙”の集団だった。

 さまざまな思惑や葛藤を乗せて咸臨丸は、1860(安政7)年1月19日、ポーハタン号より3日早く浦賀港を出発した。出航して2日目に大時化に遭遇し、猛烈な暴風雨と荒波に翻弄され続ける。

 日本人の乗組員はたちまち船酔いとなり、操船はおろか甲板に立つことすら出来ない。日ごとに激しさを増して襲いかかる風と波に恐怖し、命乞いをする者まで出てきた。木村司令官、勝海舟艦長をはじめ士官たちも、船酔いで自室に閉じこもったままである。

ブルック艦長とその部下たちは、冬の北太平洋は強い北西の季節風が吹き、パシフィック・オーシャン(穏やかな海)ではないことを熟知しており、荒れ狂う風と波の中で巧みに咸臨丸を操った。その彼らが、万次郎の操船技術の高さに驚く。

 帆船の歴史やこの時代の船の構造に詳しい草柳俊二さんが、こんな解説をしてくれた。

 「万次郎は米国で当時最高レベルの航海士の正規教育を受け、捕鯨船に乗って実践的な技術と勘を磨いた。軍艦は捕鯨船より安定性のある構造に造られている。そして軍艦は時化を避けて航海することもできる。でも捕鯨船は悪天候の中でもクジラを追って航海しなければいけない」

 

訓練された米国海軍の水兵に勝るとも劣らない万次郎の操船術は、荒波に挑む捕鯨船で鍛えられたものだった。

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