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「海の駅から」⑱

 ジョン・マーサー・ブルック(ブルック艦長)は1906年12月、80歳で亡くなった。「私の死後50年間、咸臨丸の航海日誌を公開しない」という遺言が、遺族によって守られた。

そして1956(昭和31)年、航海日誌が米国で公開され、日本の軍艦・咸臨丸の太平洋航海の実態が、明らかになった。日誌の内容は、それまで知られていない史実の発見として注目された。

咸臨丸の太平洋横断を終えたブルック艦長が、当時の米国海軍長官に報告書を提出している。その報告書には、咸臨丸が嵐に何度も遭遇し、困難な航海であったことが記述されている。

さらに、万次郎が航海士としても人格的にも、非常に優れた日本人であると報告している。しかし、ブルック艦長が悩まされ続けた日本人乗組員について、非難する記述はいっさいしなかった。

だから日誌が公開されて、日本の乗組員が外洋航海技術をほとんど身につけていなかったことが、初めて明らかになった。「ブルック艦長とその部下と万次郎がいなければ、咸臨丸は遭難していた」と報じた米国のメディアもあった。

ブルック艦長の航海日誌は、1960年(昭和35)年に日本に提供された。咸臨丸が太平洋を横断した年から、ちょうど100年が経っていた。その1世紀の間に、日本は大変貌し、開国騒動や幕末動乱は、遠い歴史の物語となっていた。

航海日誌が封印されていた半世紀の間に、日米両国の関係も大変動した。日本は欧米列強に負けまいと富国強兵に走り、ついに米国に宣戦布告、徹底的な敗北をする。米軍の占領下に置かれ、米国の援助を受けながら、復興の道を歩み始める。

 

1960年は、日米安保改定条約をめぐり、日本中が騒然となった年である。東西冷戦の中で、米国は西側の盟主の道を走り、日本は経済的、物質的な豊かさを求めて走り出した年だった。日本と米国ふたつの国が歩んだ100年の時間の不思議さを改めて思う。

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