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第1回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年4月21日(月)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介

 

日本の幕末の時代、即ち坂本龍馬や西郷隆盛また、土佐清水の代表である中濱万次郎の活躍した時代に、長崎における当時の様子を日記に残した池道之助の五代目鈴木典子さんの解釈版です。

 

 

万次郎が漂流したのち、アメリカから十年目に日本に帰って来ます。

これらは万次郎伝で皆さんもよく知っていることですが、日本に帰国してからの万次郎は当時としては最も必要としていた外国事業を知る通訳者として活躍します。中央政府の下で働いていた万次郎は、1866年の正月に母親に会うために中浜へ帰郷します。その時は高知開成館の塾長である立花鼎之進と、與惣次を家来にしての帰郷です。

 

 

万次郎は中浜で幼いころ世話になっていた池道之助に長崎行きを勧めます。道之助は「万次郎がしきりに勧めるゆえに」と記しています。

道之助は裕福な家の者であったのでしょう。当時の名刀「左行秀」を質に入れ旅の旅行費を作ります。長崎から帰ってきたのち、米俵でその名刀「左行秀」の代金を払う証文を作っていますが買い戻してはいません。文明開化に触れた道之助は、刀の必要な時代が過ぎた事を感じたのでしょう。

 

 

道之助を加えた一行4人は中浜浦を出発します。清水港までドンチャン騒ぎの見送りです。笛や太鼓、それに加えて踊りに狂言。今ではこのような見送りはなくなりましたが、出世した万次郎と道之助の遠くへの旅の慶びだったのでしょう。また、大岐村まで一緒に見送りに来た人物の中に時蔵という名が記してありますがその名は万次郎の兄の名と同じです。兄が見送りに来たのでしょう。

 

 

高知までの旅の記録には恐らく雨期に入ったのでしょう。大雨にあっています。佐賀浦で庄屋の家を訪ね、酒を頂きホッと一息しています。窪津村で役所を訪ねると誰もおらず庄屋の家を探し叱り飛ばしたという記録があります。職務怠慢を叱ったのでしょう。詳しく読んでいくと当時の様子がよくわかり、まさに時代劇そのままです。

 

 

高知に着いた道之助は万次郎と共に、五台山の下にある第一楼という所へウナギの茶漬けを食べに行っています。また、屋形船で食事をした記録もありますがこれは藩との密談に使われたのではないでしょうか。壁に耳あり障子に目ありの時代ですので必要な事でしょう。この屋形船は数回利用しています。当時は遊興に見える動きの中に、静かに動く大切な事が含まれていた様子がうかがえます。

 

 

当時の若家老、後藤象二郎を筆頭に33人のチームが組まれ長崎に向けての出発が決まります。

 

 

 

池道之助の旅日記紹介2へ続く

 

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