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「海の駅から」⑰

米国から日本に戻る咸臨丸の中で、万次郎は英文で航海日誌を書いていた。その日誌は中濱家に保管されている。万次郎の曾孫の中濱博氏が著書『中濱万次郎』で、航海日誌が〈何のためかページが故意に刃物で全体の半分くらい切り取られている〉と記している。

誰が切り取ったのだろうか。切り取られた部分には何が書かれていたのだろうか。中濱氏はあえて触れていないけれど、万次郎本人の手によると考えるのが自然であろう。

ブルック艦長は、咸臨丸の航海日誌の公開を50年間禁止した。万次郎は、航海日誌の一部を削除した。二人とも自分の日誌が、当時の日本人の目に触れるのを警戒したのだ。

攘夷思想を盾にした権力闘争が激化する国内で、外国を知っている万次郎は、微妙な立場に立たされていた。咸臨丸の航海を終えた万次郎が、日本に寄港した米国船を訪ねたというだけで、海軍操練所の教授方を免職になっている。

刺客にも何度か襲われた。国際人・万次郎を“国賊”とする尊皇攘夷派や保守主義の手合いが、万次郎を暗殺しようと襲撃した。いずれのときも、万次郎を警護していた剣の達人が、一瞬で刺客を倒し万次郎を守った。

その警護人が幕府の意を受けて、万次郎の行動を監視する役目を兼ねていたというのだから、ややこしい。260年続いた幕藩体制が終焉する前夜の、騒擾とした世相だった。

外国の人と文化の排斥を叫んでいた攘夷派が、明治政府が誕生したとたん文明開化派に変身する。鬼畜米英を叫んでいた人たちが、敗戦の一夜明けると連合軍歓迎に変身したのと同じである。官僚、学者、教師など知識階層と言われる人ほど変り身が速いのは、明治も昭和も変わらない。

ブルック艦長と万次郎が警戒したのも、変り身の速さで責任を転嫁する日本の支配層の、理不尽な仕打ちだったのではないだろうか。 

 

近代史の日米関係を見ると、ブルック艦長が日誌を封印した50年間は、実に絶妙な時間だったことに気がつく。

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