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カテゴリー「池道之助日記」の検索結果は以下のとおりです。

第9回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年9月3日(水)】

池道之助の旅日記紹介9

 

キリストの話から

 私はクリスチャンですから、キリストに関することに興味があります。

 道之助の記録を読み進めながらキリストに関する言葉が出ていることに気付き、それらについての読みを始めました。まず、サンデーに行ったという記録が出ていてその日付を辿ってみました。すると、7日ごとになっています。

(ここからが私の勝手な解釈です)

これは、日曜日に宣教師のもとにお話を聞きに出かけたのではないか、と想像して礼拝に出かける道之助おじい様の姿を思い浮かべたのです。素敵でしょ。

 当時の幕末の志士たちは、聖書の教えをほとんどの若者が学んでいたという話を聞きました。納得のできることです。坂本龍馬の率いる海援隊の若者たちも学んでいたのです。彼らは新しい日本をつくるために、外国文化の良いところを取り入れようとしていたのです。そのためには、活動資金が必要です。龍馬は亀山社中という会社で貿易の働きを始めて、いわば社長であったのです。

有名な、「いろは丸」事件の話があります。これは龍馬が貿易商売に使う船が沈められた事件の事ですが、貿易商の交渉ですから多額の賠償を相手に吹っかけたのです。これは交渉術です。あまりの多額のため、紀州の武士は内々に下げてくれるように土佐藩に交渉しています。道之助の記録では決着額は八十万両と記していて、これは筆の誤りで十を加えてしまったらしく八万両が正しいのです。この決定額が高く、それを下げるための日夜の話の様子が出ています。最終的には六万なにがしかの額で決着したようです。この辺りを想像していると、独りでおかしくてお腹を抱えて笑ってしまいます。

 話は飛びます。万次郎が帰国してから民主主義の交渉の仕方を随分政府に説明していたらしいのですが、この龍馬の交渉は万次郎の民主主義の話から影響を受けたものではないかと思われます。対等に話し合いに臨む姿です。龍馬は賢い人ですから、この辺りを良く学んでいたのでしょう

 この年は、慶応三年の出来事です。この1年の大変な出来事については次に記します。

 翻ってキリストの話に戻ります。「今日、浦上ミノとその家族 残念にも召し捕らえられる キリシタン宗の事である」とあります。

 龍馬伝の最中、長崎に鈴木と車で出かけました。その際、元土佐商会の跡地である博物館に入りました。その案内役の方から、当時のバテレン(キリスト者)狩りの話を聞きました。三度のバテレン狩りがあり、道之助の記録の物は最も大きなもので、一度に千人以上の隠れキリシタンが捕えられたのです。故に、道之助は記録に残したのでしょう。彼らは、再び長崎の地に戻ることはなかったようです。五島列島に流されたりしています。国外(長崎国以外)に散らされたのです。四国にも渡っています。このような話について、詳しく調査しても学術論文になります。

 又、道之助の「今日からフランス教師アメリカ教師になる」と言うような記録を見ると教えを受けていた宣教師の入れ替えかな、と想像するのです。

 万次郎が案内して行ったイギリス随一の金持ちと言われた商売人や各国の商業施設にも拘らず、彼らがジパン国(マルコ・ポーロの東方見聞録の記録から)と呼んでいた日本国を植民地化出来なかった理由が以上、述べた中にあります。

 日本人は、良く学ぶ民族であること。又、良い意味で武士階級の者たちは対等に話をする勇気を持っていたこと。自分の意見を持っていたということも大きな要素です。

 ここで、寺子屋教育の素晴らしさを見ることが出来ると私は当時の教育の底力を偲んでいるのです。

 

 

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第8回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年8月6日(水)】

池道之助の旅日記紹介8

 

~カレーライスの話から~

道之助の記録の中に、マ子カレ馳走になる、という記録がある。土佐史談の研究家が活字にしていた物を読み砕いていて、この言葉に会った。

ハタッと考え込んでしまったのである。頭をかかえてしまった。ハテ、何のことであろうかと。ここから前に進まない。1~2日経ったであろうか、もしかしたらカレーライスの事ではないかと、ひらめいたのである。

 これらの研究と苦労話をとんでもない訳を含めて、鈴木が小冊子を印刷してくれて高知の坂本龍馬記念館の研究発表で話をさせていただいたのである。

 その際「マ子カレ」の話に対して、色々ご意見を頂いたのである。その中に「当時の長崎で数種類のスパイスを使ってカレーライスが作られていた、と言う記録がある」と言って下さる研究家もいらっしゃった。

 研究に入り始めた当時の私には、全てが驚きと感動であったが今日冷静になって考えてみると文明開化の日本には世界の珍味が集結していたのは当たり前のことである。

 道之助を始めとして内地留学に長崎に来ていた有能な若者にとっては、全ての物が新しく心躍らせる物ばかりであったと想像できるのである。彼らは、外国語を学び、新政府のもとで諸外国との取引にも役立つよう備えていったものと考えられる。

 道之助の記録の中には、明治維新に携わった有名人の名が沢山出ている。ただし彼らの中には命を狙われた者もいたのでそのままの名前で出ているとは限らない。例えば、よく知られている坂本龍馬は、才谷梅太郎と言う名で出ている場合もあり長州(山口県)の伊藤博文は伊藤俊輔と出ている。井上馨は井上聞多と記録にあり、これらの人名をピックアップしていくだけでも大きな歴史研究の材料になるのである。

食物についても、砂糖を溶かして飲む記録や、パンと乳、シャンパンをご馳走になったことや、豚のヘラヤキを食べたことなどが記されている。

 道之助が筆舌に尽くし難しと記している内容は、主に景色の美しさや壮大さ、また、長崎でオーケストラの路上演奏を外国女性が美しく着飾ってきて鑑賞する様子など、実に美しい表現としてあらわしている。これらは、現代のクラッシック音楽に対する几帳面な態度をあらわす風景として私は想像を馳せているのです。今回はこの辺りで。

 

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第7回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年7月16日(水)】

池道之助の旅日記紹介7

 

 いよいよ、長崎での目まぐるしい日々が始まります。日記を読み返す度に、当時の長崎での様子が手に取るように読者に伝わってきます。

丸山で接待をしたり、グラバに出かけたり、上野の写真館に出かけたり、部屋で写し物をしたり、牛乳とパンを馳走になったり、と記されています。中濱の様子も記されています。

上海行きの準備の最中、中濱氏は江戸へも出帆しています。しかし、何かいいことが決まると昼間は多忙でも、夜は十陽亭(料亭の名前)に行き馳走に合い、宿から宿の家内が賑わいの為に芸子を二人連れて参加してくれたりして接待をしてくれています。

第一回目の上海行きのメンバーが決まります。

後藤象二郎殿 中濱万次郎殿

高橋勝蔵御用人勘定方として行く(会計係)

森田幾七 中濱万次郎従者として

由比珪三良士 松井周助士(英国留学の男)

〆て六人がこの度の上海行き

其外 宇和島の士賀来幸右衛門同(宇和島)上田亮太良又一人は加賀の家中、以上の三人は便売(有料)なり。

 

ここで私が注目したいのは、お役目への敬称つかいです。なので、後藤象二郎朗殿

中濱万次郎殿 由比珪(たま)三良士 松井周助士等の敬称です。余計なことではあるが、後藤 中濱と記されてある部分もあるところを見ると、その行動によって道之助は暗に記したものと思われる。その意を持って池道之助日記を読み進めて行くと、さらに深く内容がつかめると思うのです。

 ここからは、少し省略して話を進めますので気になる方は現代語訳池道之助日記をご覧ください。

 

この時、私も同行する筈であったが人数も多く物入りも大変であり、それに私が行くとなると北村治三郎殿も行くと申すので、会計係が心配しているので止めにした。

中濱殿にも実に残念に思っていただいたのである船中の異人のまかないだけでも一人あたり金三両ずつの支払いが必要であると申し上げたのである。

蒸気船 帆船とも二艘買い付ける予定であるが、長崎湊には乗り付けていないので、上海にまで行くのである。二十六日の早朝長崎湊を出帆する。

一行の出発した後、土佐商会は静かで、「・・・静かでとてもよろしい・・・・今日は夜前のくたびれにて休息・・・」と記され、万次郎の従者の與惣次と一緒に仕事の為に動き回っている様子がうかがえます。

この辺りから、道之助の体調不良の記録が出てきます。また次回に。

 

 

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第6回 池道之助の旅日記紹介

 

【発信日:2014年7月2日(水)】

 池道之助の旅日記紹介6

 

一つの小門に入り、一人の女が出てきて さあ おあがりなさいと座敷に通された

横山に向かい「このような 良ろしき場所に連れて来るのであれば、前以て言ってくれればよいものを 私は寝間着(部屋着)一枚で脇差一つのまま来てしまった。分かっていれば少し身支度をして来たものを」横山答えて、「貴方は知っておれば参加しないであろうと思って欺いたのである」

 三人座れば茶 煙草盆をその家の家内持ってきて 酒と「肴」(さかな)を出し 皿鉢二つ どんぶり三つ。

 横山熊次が申すには 芸子二人を呼んでくれと。程なく来たり。十六七歳あまりの おここと申す芸子が三味を持って来た。一つ二つ酒を呑み三味を引き掛けるが、横山は土佐風の▽土佐の高知のはりまや橋で ぼんさん メガネを買い寄った などのふしを頻りに歌い 芸子には持ち歌を歌わせる。西川の番頭と私は 酒を呑まず実に退屈した。番頭熊次とささやき、身ごしらえをして、脇差を差し、煙草入れと手拭いを取り、盆おどりをしながら、煙に巻いて、横山を一人残して、提灯をかり、勝手口から松次郎と二人が帰ったのは四つ頃(深夜2時)である。

金を惜しんで抜け帰ると思われては恥ずかしいので、おどりの前に、おどりの芸子へは三朱(さんしゅ(※金銭の単位))肴代として渡しておいた。

翌日五日、横山に会い、大笑いした。代金は一歩二朱掛け代(※後払い)として承る あげ屋にしてはどうして安いか。それは料理屋の故であると。

‘知らぬ道 ただうかうかと来てみれば 芸子舞子で馬鹿になりしや’(道之助のヒニクでしょうか)

 

五日曇り雨ぼろぼろ或いは晴れ 今日昼飯済ませてより中濱氏とイギリス人ガラマ方へ行くが、ガラマはじぶんの心配りの良いところや珍しいことなどを言うばかりである。万次郎が言うにはイギリス第一の金持ちであり、諸国に店を出しているらしい。奥行き二十間ばかりの蔵 六間を見せてくれる。大砲小砲夥しく(おびただしく)見物致す。其の後に上茶菓子馳走になる。その最中ガラマが中濱氏に向かい、この人に茶の製造所を見学してもらうと、自ら案内して残すところなく全て見物した。それから、又御馳走に合う。帰り際には、手と手を取り ぐうりで ぐうりでと言って私は帰り来る。(西洋式の挨拶 即ち握手の場面であろう)以下、道之助のスケッチが載せられてある。

 

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→池道之助の旅日記紹介7へ続く

第5回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年6月16日(月)】

池道之助の旅日記紹介 第5回

 

今日、読書についての相談に出かける。幸い同宿の溝渕寅丞様に頼む。「中濱が本の世話をしてくれる筈になっているので本が見つかり次第知らせがある」との話である。

 今晩、幾七殿と浜の町辺に遊びに行き、浄瑠璃を聞き、帰る。

八月二日天気 朝 中濱は船に行き、昼帰る。後藤様、松井、由比様 レーマンへ行く

(※レーマン:長崎出島にて、武器商人として活躍していた人物)

今日、三里に灸を致す。金具やから煙草のかな具を買い求める。二朱一厘を払う。

中濱夜に入り帰る。

三日天気 今朝庄衛へ先に払っている濱奥の反物代金の催促状を付けて手紙を頼みに行く。

中濱氏は宇和島侍上田亮太、賀来幸右衛門、松井周助様の四人をブタのヘラヤキにて酒宴を致す。それから昼頃一同出ていく。その後私は買い物に出かけ、メガネ、ビン、鏡、筆、セッタ、羽織の紐、ペンを買い求める。筆は唐人の筆、一本が一朱に付き十本買う。

四日曇り 天気 中濱 後藤 松井様四人は軍艦へ行く。私は読書 写し物致す 

昼より曇り日暮れより大振り 夕飯を食して休憩をしている所に、後藤様の家来横山熊次が来られ、今晩若宮の辺りが甚だ賑やかであるので、見物に行かないかとさそわれた。

私も行こうか行くまいかと考えていたところで、神祭りのことで、何か珍しいことも有るであろうと考え、それに距離が3丁余りの場所であり、心安く思い、同意することにしたものの、もし茶屋などに誘われると難儀になると愚慮して西川氏の番頭松次郎を誘い三人で行く。松次郎を誘った訳は如何なることありても、今宵は宿に帰る積りである故に。(この辺りは道之助の茶目っ気の入った記録で、大人の笑い飛ばしの話と受け取るべきであり、真剣な話ではない)横山先に行きけるが、凡町を数四五丁(4~5丁)も行くと自然と人通りも少なく、神祭りの様子も少しも見えず、遠くに来たので帰るべしと言うと、横山曰く、最早近づいたので遠慮はいらぬと、色々話しながら又…(次回に続く)

 

※西川「」の番頭とある。余程の信用と、確かな人物に対する表現であります。

 

当時敬称のつく場合は意味があり、後藤様についても後藤と記している場合がありますが、御用を外れての場合にそのままの記録ではなかったかなと考えています。中濱についても旅の途中から表現が違ってきます。その用向きと役目が敬称に記されているのです。道之助は正直者ですから、そして自分の日記であるために思いを素直に表したのでしょう。これは誰にでも言えるそのままの気持ちです。

 

→池道之助の旅日記紹介6へ続く

第4回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年6月1日(日)】

池道之助の旅日記紹介 第4回

 

二十五日茂木浦出発。長崎着

茂木から長崎へは一里半の距離。朝はゆっくりして髪を結い風呂に入り五つころ(午前8時頃)ここを出立。九つ時(昼12時)に長崎着。

宿は糀屋町(こうじやまち)西川易次郎

この西川宿は易次郎の先代の主助の代より土佐国の御用達を仰せつかり、主助はそのお役目をよく勤めていたのであるがこの年の春、何者かの仕業で町内を往来していた夜四つころ(9時頃)に帰宅の途中町内で切り殺されたのである。実に合点の行かぬことであると人々が噂をする。なぜなら普段は正直者である故にこの御用をいただいたのであるから、人に切り殺されるような恨みを持たれる人物ではない。土佐藩の一行は非常に残念で涙いたした。

この頃、いろいろな物騒な話が飛び交っていた。

諸国から様々な修行のため人々が入り込み土佐からも二十人あまりの人がこの地に留学して、英学、医学や様々な塾で学びそれらの人を皆、西川主助が世話していたのである。各々の宿の世話、日用の世話までしておったが金銭トラブルでもあったのではないかとのことである。その頃、土佐からの書生の中に医師と御足軽の両人が出かけていたのでこの人達ではないかとの噂が流れたのであるが、確かなことはわからないので此処にその噂を記しておく。(犯人がわからないままであるゆえ)

それからは御用達を止められておったが再び、七月二十七日をもってせがれ易次郎へ以前の通り御用達を仰せつかったのである。一同有り難きことであると悦んだ。

二十六日後藤様の一行長崎につく。御宿は櫻馬場三浦藤蔵方である。

二十七日 天気 宿の留守番

二十八日 中濱氏同道にて五つ時(朝8時)出立。

古川町姫路屋久右衛門かたへ行きその後オランダレーマンの宅に行き二階に上がり酒など馳走になる。色々鉄砲見物をする四十五十あまりの筒の売買をすると聞く。その座敷のよいこと実に美を尽くせり。出島というこの所でめがねを買い向かいの尾浦を眺めるとイギリス・オランダ色々の家並みが見え、実に異国同様の様子である。湊には唐人、イギリス、アメリカ、オランダ舟二十隻あまり停泊見事である。

その帰り道、又二階に上がるとフランス製の売り物があり実に美しい。その後宿へ帰り休息する。そこにも数々の来客があり話しをする。

七月二十九日 天気

髪を結い読書する。中濱氏は数人の者と尾浦へ行く。私は留守番。

後藤様、中濱、田井、松井、かれこれ四、五人連れで行く。色々御見物の後日暮に帰る。この夜私は加治屋町大根屋の庄衛へ行き、うでぬき一枚新しいものを買って帰る。

三十日 天気 五つ半(朝9時)中濱と一緒に櫻馬場三浦藤蔵方の後藤様の宿へ行き金子(きんす)を持ち帰り中濱に渡す。九つころ(昼の0時)から後藤様、中濱、由比、松井の四人でレーマンへ筒見物に行く。七つ(午前4時)頃から雨降り出す。今夜は土佐商会総出。私一人が留守番。読書をする。

八月朔日(8月1日)雨大降り四つころ(午後2時)より雨上がり日和になる。田村屋庄衛より奥濱の反物、羽織、袴など三品受け取り金四両渡す。

中濱君 早朝出て八つに帰る。

 

長崎到着の翌日より一行は公務に着手して買い付けのための見学や交渉に動きが活発です。長崎とは違い、ゆったりとした地方に住む者たちにとっては目を見張るようなことばかりで落ち着いてはいられなかったのでしょう。辻斬りや大事、物騒なことが起こり始めます。

文明開化当時の長崎でのようすが道之助日記をたどってゆくとよくわかります。

 

次回をお楽しみに。

 

→池道之助の旅日記紹介5へ続く

第3回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年5月14日(水)】

池道之助の旅日記紹介 第3回

 

 阿蘇郷に五万石の国あり。田畑が多い里である。内牧に泊ることになる。町の宿はクモの巣のはった所であるが、中濱氏は布団を二つ重ねてその上に横になるのを常としていたので、ここでは寝苦しい様子である。

二十一日 熊本城下に泊まる。中濱氏の宿は松原屋内臓治。

□熊本の城は実に見事で、大門を五つくぐるまで門ごとに番所がありとても見事である。

それより進んで二つ目の峠より肥後の城下の村里を見下ろすと広大な国である。それより下って行くと二~三里の間、道の両側に大杉が立っている。加藤清正の植えた杉並木である。道幅は広く、畳を4~5枚横並べた広さである。(約10メートル)

清正公への参詣は、他国人は差し止めであったため、そのまま通過する。

その理由は小倉一件にあり。(※小倉の一件は文末に記す)

宿に宿泊しても、物々しい警戒で宿の付き人が一緒でなければ町に出られない程である。

 

二十二日熊本から、島原へ渡る様子が記されてある。

渡し屋の米屋茂三郎の所で一休みして、一同評儀をする。

□この雨降りでは出帆しないのが古くからの習慣である。と水夫が言うので、後藤様組は泊まる模様。しかし、中濱氏は是非乗船と言う。今宵、月の出を待って出帆と決め、與惣次は荷作りに忙しく私道之助は人夫に渡す銭を用意して予定時刻に出発。

□大雨であるが、川を二里程下り川口に至ると風は凪になり(静かになり)只雨が降り静かなり。海上も静かであるので直ぐに島原が見えるものと期待していたが雨や霧に阻まれ何も見えない。

そのうち、少し雨が止み山の姿が浮かび天草の地が現れた。気持ちを取り直し船を整えようやく夜の九時頃に肥前島原へ着船。

その夜は松村屋久佐衛門方に泊まる。

 

※小倉の一件について

九州の入口である小倉において、高杉晋作率いる兵を始め熊本や幕府の兵などが上陸作戦を展開していた。それに加えて将軍家茂(篤姫の夫)の死が重なりショックを受けた幕府の参謀が逃げ出す事態が発生するなどして熊本城下は長州人の密偵が潜入することへの警戒心から清正公への参詣は止められていた模様である。このような物々しい空気に対して道之助は「残念なことである」と記しています。

 

池道之助の旅日記紹介4へ続く

第2回 池道之助の旅日記紹介

 【発信日:2014年4月27日(日)】

 池道之助の旅日記紹介 第2回

 

後藤象二郎を頭に33人のチームは高知城下を出発します。

土佐と宇和島の境の関所(検問所)で往来切手を引き合わせ通り抜けと記されてありますからお互いの割符(通行手形)を合わせて、キチッと合って通行可となったのでしょう。まるで時代劇そのままです。そこに宇和島の庄屋と見える人が迎えに来ていて、とても丁寧なおもてなしがはじまります。

 

まず乗物(のりもの)2丁(かご)を用意してくれていたが私たちは乗らないまま。ござなど敷いてくれてその上に座り茶などを出してくれる。城下に出るまでの道すがら、山の陰や涼しい木陰を利用して冷たい水などを出してくれ実に暑さの中であるのできもちのよい接待である。このような場所が5、6ヶ所もあった。その昼弁当を庄屋の家でいただく。

 

7月12日午前9時宇和島に到着。中濱万次郎、私、與惣次の3人は町役場に泊まり後藤様は町の酒屋に泊まる。両宿とも袴をつけた城のさむらいが3~4人ずつ昼夜交代で接待をしてくれて実にていねいである。

 

翌13日~15日まで宿泊して、14日、15日は伊豫守(いよのもり)様へお許しをいただいて城中のいろいろな場所を見学さしてもらう。港の蒸気船も20隻お求めになったと見え中濱氏とこと細かく見物させてもらう。

と、町中のにぎやかな様子が記してあります。

 

16日夕方7時宇和島から乗船して佐賀関に向かいますが台風シーズンらしく思うようにはならず、ようやく臼杵に入港したもようです。突然の入港ゆえ御番所(役所)に高橋勝右衛門様、森田幾七様、伊平殿の3人が宿の交渉に出向いています。

 

與惣次と常七は荷物番に船にのこりその他の者は宿に向かいます。中濱氏は町の惣組頭たたみや町新衛方に泊まる。後藤様の宿代は支払なし。臼杵ではこの時の費用をすべてめんどう見てくださる。それは土佐と御類族のゆえである。臼杵のお城は海上からもながめがよろしく、「そのすがたは実に見事である」と記しています。港の入り江も大変よろしく良き湊である。

 

18日ここを出発19日荒城の月の唄で有名な竹田城下に宿をとる。竹田城下宿、岡本町 北岡屋與市右衛門20日竹田城下出発21日須郷村玉来より2里半のところに細川越中守領分これより東、中川修理太夫領分の立木が立ってあり細川分は至って大きく中川分は小さい。(P43)

 

ここから九州の火山の話になります。猫ヶ岳有り阿蘇山有り歌いにある阿蘇の宮はここであるが、お役目の旅ゆえ参詣しないで通過する。カルデヤ湖の様子が記してあります。

 

四方立山にて中は盃のようになっておる。

 

 

 

 

→池道之助の旅日記紹介3へ続く

第1回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年4月21日(月)】

池道之助の旅日記紹介

 

日本の幕末の時代、即ち坂本龍馬や西郷隆盛また、土佐清水の代表である中濱万次郎の活躍した時代に、長崎における当時の様子を日記に残した池道之助の五代目鈴木典子さんの解釈版です。

 

 

万次郎が漂流したのち、アメリカから十年目に日本に帰って来ます。

これらは万次郎伝で皆さんもよく知っていることですが、日本に帰国してからの万次郎は当時としては最も必要としていた外国事業を知る通訳者として活躍します。中央政府の下で働いていた万次郎は、1866年の正月に母親に会うために中浜へ帰郷します。その時は高知開成館の塾長である立花鼎之進と、與惣次を家来にしての帰郷です。

 

 

万次郎は中浜で幼いころ世話になっていた池道之助に長崎行きを勧めます。道之助は「万次郎がしきりに勧めるゆえに」と記しています。

道之助は裕福な家の者であったのでしょう。当時の名刀「左行秀」を質に入れ旅の旅行費を作ります。長崎から帰ってきたのち、米俵でその名刀「左行秀」の代金を払う証文を作っていますが買い戻してはいません。文明開化に触れた道之助は、刀の必要な時代が過ぎた事を感じたのでしょう。

 

 

道之助を加えた一行4人は中浜浦を出発します。清水港までドンチャン騒ぎの見送りです。笛や太鼓、それに加えて踊りに狂言。今ではこのような見送りはなくなりましたが、出世した万次郎と道之助の遠くへの旅の慶びだったのでしょう。また、大岐村まで一緒に見送りに来た人物の中に時蔵という名が記してありますがその名は万次郎の兄の名と同じです。兄が見送りに来たのでしょう。

 

 

高知までの旅の記録には恐らく雨期に入ったのでしょう。大雨にあっています。佐賀浦で庄屋の家を訪ね、酒を頂きホッと一息しています。窪津村で役所を訪ねると誰もおらず庄屋の家を探し叱り飛ばしたという記録があります。職務怠慢を叱ったのでしょう。詳しく読んでいくと当時の様子がよくわかり、まさに時代劇そのままです。

 

 

高知に着いた道之助は万次郎と共に、五台山の下にある第一楼という所へウナギの茶漬けを食べに行っています。また、屋形船で食事をした記録もありますがこれは藩との密談に使われたのではないでしょうか。壁に耳あり障子に目ありの時代ですので必要な事でしょう。この屋形船は数回利用しています。当時は遊興に見える動きの中に、静かに動く大切な事が含まれていた様子がうかがえます。

 

 

当時の若家老、後藤象二郎を筆頭に33人のチームが組まれ長崎に向けての出発が決まります。

 

 

 

池道之助の旅日記紹介2へ続く

 

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