帆船模型の展示

ご紹介している帆船模型は「地域の人々の力による観光資源の創生」をコンセプトに高知工科大学名誉教授 草柳俊二さんと学生が模型を作成し寄贈して下さったものです。

鳥島コーナー展示

ジョン・ハウランドとジョン万次郎

 ジョン・ハウランドは1841年6月、鳥島に漂流した万次郎たち5名の日本人を救出した船で、当時はホイットフィールドが船長でした。この船は1830年にアメリカの捕鯨船の基地、マサチューセッツ州ニューベッドフォードで建造された捕鯨船用の木造帆船です。約380トンで、30人から35人程度の船員が乗って捕鯨活動をする大型捕鯨船に入ります。
 万次郎は約2年間、ホイットフィールド船長の指揮するジョン・ハウランドで捕鯨や航海術を習得しました。ジョン万次郎が住んだフェアヘーブンはニューベッドフォードに隣接する町で航海術の専門学校がありました。ホイットフィールド船長は万次郎の能力と意欲を高く評価し、フェアヘーブンの航海専門学校に通って本格的な技術を学ぶように勤めました。万次郎は船長の意見に従い、勉強し、当時の世界では最先端の捕鯨技術、航海技術、造船技術を身に着け、日本に持ち帰りました。ジョン・ハウランドは万次郎だけでなく、日本の発展の原点に繋がる船といってよいでしょう。


帆船模型展示コーナー

咸臨丸カンリンマル

 咸臨丸は日本人による初めての太平洋横断を果たした船として知られています。1860年、江戸幕府はアメリカに日米修好通商条約の調印のために使節団を送ることになりました。アメリカは自国の最新鋭軍艦(ポーハタン)を使って下さいと幕府に申し入れました。しかし、幕府はこの申し入れを一旦受けたものの、日本人の力を示すためには、自国の船で行くことが必要と考え、軍艦操練所の所長であった勝麟太郎を船長に任命し咸臨丸を派遣することにしました。
 しかし船長の勝をはじめとして船員の誰もが太平洋の荒波がどの様なものか知らなかったため万次郎に航海の指南役を頼みました。万次郎がアメリカから帰国し10年が経った32歳頃のことでした。咸臨丸は1860年1月に出帆。冬の太平洋は荒波と嵐の連続で、船員はどの様に船を操ってよいか分かりません。勝船長は操船指揮を万次郎に頼みました。捕鯨船に乗り、太平洋を縦横に動き回った万次郎以外に荒波や嵐に対応する操船技術を持った者は居なかったのです。日本人による初めての太平洋横断は万次郎がいなかったら出来なかったといってよいでしょう。


サンフェリペ

 サンフェリペはガレオン船と呼ばれる形の船で、1596年10月に土佐沖に漂着したスペインの船です。サンフェリペは1596年の7月にフィリピンのマニラからメキシコに向かおうとしていましたが、何度も嵐にあい、土佐に漂着しました。当時の土佐の領主は長宗我部元親でしたが、元親はサンフェリペを浦戸湾に曳航して座礁させました。サンフェリペに乗っていたスペイン人の何人かは豊臣秀吉に会うため京都まで行きましたが、処刑されてしまいました。土佐に残された船員は何度も船の修繕を申し出て許され、修理を終えたサンフェリペは1597年4月に浦戸を離れ、5月にマニラに到着しました。
 この事件から約10年が経過した1613年に、仙台藩の伊達正宗はローマ法王への使節団を送るためサン・フアン・バウティスタという船をつくりました。この船は現在の石巻市で作られましたが、サンフェリペと同じガレオン型の船でした。土佐に漂着したサンフェリペの構造を参考にしたとも考えられます。


幕末の西洋艦船     (観光丸と同型外輪船)

 ペリーの率いる黒船が日本に現れた1853年以後、幕府や各藩が争って西洋の艦船を購入しました。この当時、日本が購入した船は、幕府の観光丸を始めとして多くが外輪船でした。外輪船は、船の後や側面に付けた水車を回して進む船で帆走中は抵抗を減らすために外輪の水かき板を外せる構造になっていました。1850年代にはスクリューも開発されていましたが、十分な推進力を作り出せるものはありませんでしたので、外輪船が主流となっていました。スクリューが改良され、推進機能が高まるに従い、外輪船は姿を消して行くことになります。ポーハタンは外輪船の最後の大型艦船です。


南北戦争時代のフリーゲート艦(1)

 ジョン万次郎たちが使節団として咸臨丸でアメリカに渡った翌年の1861年3月に南北戦争が始まり、4年間も続きました。日本に戻っていた万次郎は南北戦争の勃発を知りました。南北戦争では陸上だけではなく、河川や海上でも戦いが続けられました。これらの戦いでは多くの船が小型戦艦、フリーゲートとして使用されました。もし、万次郎がアメリカにいたらフリーゲート艦の士官として戦闘に巻き込まれていたかもしれません。


スクナー型捕鯨船

 近海にやってくるクジラを捕まえる中型の捕鯨船で、高速力でクジラを追うことが出来る構造になっています。ジョン万次郎が暮らしていたフェアへ―ヴンやニューベッドフォードにも多くのスクナー型の捕鯨船が活躍していました。ジョン万次郎も日本に帰って来て、伊豆の江川太郎左衛門のところでスクナー型捕鯨船の建造を計画していたようです。


海賊船

 ニューベッドフォードのようにアメリカの捕鯨基地は大西洋側の北部にありました。ジョン・ハウランドのような大型捕鯨船は太平洋にまで行って捕鯨をし、2年から3年後にクジラの油を一杯積んで戻ってきます。カリブ海の海賊達は捕鯨船を攻撃し集めた油を横取りしようとしました。ジョン万次郎も海賊船に追われる経験をしたかもしれません。


ポーハタン

 ジョン万次郎がフェアヘーブンで勉強をしている頃、1846年~1848年の間、アメリカはメキシコと領土獲得の戦争をしていました。アメリカは戦争に勝利するために大型軍艦の建造に着手していました。ポーハタンとサスケハナは当時、世界最大級の軍艦で、共に1847年に建造が始まりましたが、完成したのは戦争終了後の1850年でした。メキシコとの戦争に勝利した後、アメリカは日本に開港を迫ってきました。その主目的は太平洋での捕鯨活動拡大の基礎を作るためでした。
 ペリー提督が乗る大型軍艦サスケハナほか3隻、合計4隻の軍艦が浦賀(東京湾)に現れたのは1853年7月でした。ペリー提督は翌年1854年2月にもう一隻の最新鋭大型軍艦のポーハタンを迎え、合計7隻の軍艦を引き連れて再び東京湾に現れ、大砲の音を響かせ幕府に開国を迫りました。これらの軍艦は真っ黒に塗られていたため、人々は「黒船到来」と恐れおののきました。当時、世界最大級の軍艦が7隻も現れたのですから日本中が大騒ぎになったのは当然です。ジョン万次郎はアメリカから日本に帰国して、2年程度経過した頃で年齢は25歳ほどになっていました。万次郎は黒船到来には冷静でした。アメリカにいる時に、巨大軍艦建造に関するニュースを読んでいたのでしょう。
 ポーハタンはその後も日米修好通商条約の締結のために何度か日本に来往しました。通商条約は1858年7月にこの船で調印されました。吉田松陰が外国留学のため密航を企て接触したのは、このポーハタンでした。1860年2月にポーハタンは幕府使節団77人を乗せて咸臨丸と共にアメリカに向かいました。ジョン万次郎はポーハタンと咸臨丸を自由に行き来し、日本人とアメリカ人の間の様々な問題の解決や友好を図る役目をしました。船長を始めとしてポーハタンの船員達がジョン万次郎の人柄と能力を高く評価していたことが分かります。ポーハタンは嵐の最中に燃料の石炭を多く使いハワイに寄らなければならなくなりましたが、ジョン万次郎の指揮で航海を続けた咸臨丸はポーハタンより約10日早くサンフランシスコに到着しました。


ヤンキークリッパー

 クリッパーは高速の大型帆船で、アメリカで作られたクリッパーをヤンキークリッパーと呼んでいたようです。ヤンキークリッパーは大西洋側の都市から太平洋の都市へ、そしてヨーロッパやアジアの国々へ人や荷物を運ぶ役割をしていました。ジョン万次郎は1849年11月にスティーグリッツという船でニューベッドフォードを離れサンフランシスコに向かいました。1850年の9月にはエリザワーウイックという船でサンフランシスコからホノルルに向かい、同じ年の12月にホノルルから香港に向かうサラ・ボイドという船に乗りこみ、船が沖縄に近づいた時、ホノルルで手に入れたボートを降ろしてもらって糸満村に上陸しました。ジョン万次郎は捕鯨船だけではなく、高速の大型帆船についても色々な知識をもっていたと考えられます。