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「海の駅から」21

 ジョン万次郎こと中濱万次郎は、1898(明治31)年1112日、71歳で亡くなった。世界の海の荒波を越えてきた人生と対照的に、万次郎の最期は穏やかだったという。

 晩年の万次郎に、開国維新の史実や明治政府への論評を聴き出そうと、新聞記者などが面会や質問を試みた。普段は話し好きな万次郎が、そうした質問には寡黙を通した。万次郎の死と一緒に消えた史実や真相が、あったはずである。

 万次郎が米国から帰る咸臨丸で書いていた英文の航海日誌の一部を、切り取った行為と重なってくる。当時の日本に英文を読める日本人はほとんどいなかった。明治時代になって、英語を理解できる人が出始めたころに、切り取ったのではないだろうか。万次郎自身のためより、後世の子孫たちに迷惑が及ばないよう配慮したように思われる。

万次郎に愛情と教育を注ぎ、一等航海士にまで育ててくれたホイットフィールド船長。咸臨丸の太平洋横断航海の出会いから、お互い尊敬し合い友情を貫いたブルック艦長。物心両面で支援してくれたデーモン神父。万次郎はこの三人の米国人を、心底から信頼し、終生恩義を感じていた。 

幕末、維新の波乱を巧みに乗り切り、新政府の椅子に座った人たちに、万次郎は心を開けない何かを感じていたのかも知れない。万次郎の足取りを調査してきた草柳俊二さんの話も、暗示的である。

「万次郎が幕府の命を受け函館に行っていた時期と、函館で西洋型スクナー船・函館丸が建造された時期が重なる。万次郎が関わっていたはずですが、その記録がない。富士市沖で沈没したロシアのディアナ号の乗組員を本国に帰すための船を、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が指揮をして建造した。韮山塾の助手だった万次郎が手伝ったと考えるのが自然です。でもその記録が全く残されていない」

 

少し謎めいている。ジョン万次郎資料館に展示されている咸臨丸の模型は、実はアフリカで製作された。こちらの話も、謎めいていて面白いではないか。

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