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「海の駅から」⑮

咸臨丸が浦賀を出港する前日の日誌に、ブルック艦長はこう記している。

 〈私には万次郎が誰よりも日本の開国に貢献した人物であるように感じ取られた〉(『中濱万次郎』、中濱博)。

 日本の開国貿易を決定した日米和親条約と日米修好通商条約。この二つの条約の日米交渉で、万次郎は一度も通訳を務めていない。

 韮山代官・江川太郎左衛門が、交渉の場に万次郎を同席させようとした。しかし幕府幹部が「英語のできる万次郎が、米国に有利な通訳をしかねない」と反対し、交渉はオランダ語で行われた。日本人通訳のオランダ語がひどくお粗末で、交渉が難航した。

 そうした経緯があり、開国前後の日米交渉に、万次郎は直接携わっておらず、公式の記録にも万次郎の名前はない。ブルック艦長も、条約締結の交渉にはタッチしていない。

ではなぜ万次郎を〈開国に貢献した〉と記したのか。実際には、開国の交渉に万次郎が深く関わっていたからだと考えられる。

 ペリー艦隊が最初に来航した5カ月後に、幕府は万次郎を土佐から江戸に呼び出し、幕府直参の地位を与えた。万次郎が見聞、経験した米国の情報と英語の知識が必要となり、破格の処遇をしたのだ。 

その万次郎を日米交渉に起用しない方がおかしい。公的な交渉の場からは万次郎を外したけれど、幕府は密かに設定した日米交渉の場で、万次郎を通訳だけでなく実質的な交渉係として起用したと推測される。

オランダ語で行われた公式の交渉より、万次郎を介して英語で行った交渉の方が、はるかに日米両国にとって有効かつ友好の成果があった。その事実をペリー提督、ハリス領事など日本に来ていた米国人は承知しており、万次郎を高く評価した。ブルック艦長が、〈誰よりも開国に貢献した人物〉と書き残した真相が見えてくる。

 

しかし、万次郎の果たした役割が明らかになると、万次郎の身辺に危険が及ぶ心配があった。それを気遣いながらブルック艦長は航海日誌を書いている。

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