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「海の駅から」⑦

 日本の使節団が乗るポーハタン号に随行する幕府の船が、朝陽丸から観光丸に、そして咸臨丸に変更された。出航前になぜ慌しく変更したのか。諸説があり、いくつかの推測も成り立つけれど、確証はない。

 記録によると、朝陽丸は、幕府がオランダに発注した軍艦。全長49メートル、全幅7・27メートル、排水量300トン、3本マスト、100馬力蒸気機関。日本に来たのは1858(安政5)年である。

 観光丸は、1855(安政2)年にオランダ国王から江戸幕府に贈呈され、長崎海軍伝習所の最初の練習艦となった。全長65・8メートル、全幅9メートル、排水量353トン、3本マスト、150馬力蒸気機関。

 咸臨丸は、朝陽丸と前後して同じ造船所で建造された軍艦。全長49メートル、全幅8・74メートル、排水量620トン、3本マスト、100馬力蒸気機関。朝陽丸より1年早く日本に到着、海軍伝習所の練習艦に使用された。

 朝陽丸、観光丸、咸臨丸はいずれもオランダで建造され、オランダ人船員によって大西洋、インド洋を経由して日本に回航されてきた。従って、3艦とも太平洋航路を横断していない。

 一方、咸臨丸の乗組員はどのように編成されたのだろうか。幕府は軍艦奉行並の木村摂津守喜毅を軍艦奉行に昇格させ、咸臨丸の司令官に任命した。乗組員士官には、海軍伝習所や軍艦操錬所の関係者や卒業生などが選ばれた。その中には、長崎海軍伝習所第一期生の勝海舟もいた。

 だが伝習所の訓練は、オランダ人教官による軍艦操縦の基本習得が中心だった。実践的な航海技術を体得し、荒海の恐怖に耐えられる心身をつくる本格的な遠洋航海訓練は行っていない。

 

それでも幕臣たちは日本独自の船と日本人乗組員で、太平洋を横断できると考えていた。しかしその実態は、太平洋横断の実績や経験がない船と乗組員という状況だった。そうした幕府の拙速な対応が、随行艦の選定の二転三転に現れている。

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