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「海の駅から」⑯

 咸臨丸が太平洋に乗り出すと、たちまち日本人乗組員の航海技術の未熟さが露呈してしまう。外洋航海を知らない海軍伝習所出身の士官たちと、世界の荒海を経験している万次郎との技量、度量の差は明らかになるばかりだった。

それを知りながら日本人水夫たちは、身分(通訳)の低い万次郎の操船指示に従おうとしない。ブルック艦長は、万次郎を気遣う心境を綴っている。

〈彼の立場は非常に危険なので、問題を起こさないように、常に注意を払わなければならない〉

日本人同士の軋轢の中で理不尽な窮地に立たされている万次郎を、ブルック艦長が懸命に守ろうとしている。

 〈乗組員の内、万次郎だけが日本の海軍の改革が必要であるという意見を持っていた〉

 この場合の「海軍」は、幕府の海軍全体ではなく、咸臨丸の日本人クルーのことであろう。日本人乗組員が航海術の習得に真剣に取り組み、規則と指令系統を明確にして、チームワークを確立しなければ太平洋横断は難しいと、万次郎がブルック艦長に心情を吐露したのだと思われる。

 〈私は日本の海軍を改革することに努力し、万次郎に協力する〉

 ブルック艦長が咸臨丸の実質的な艦長となってから、日本人乗組員はしだいに組織体制を整えていった。

咸臨丸が浦賀を出発する前の、日本国内での万次郎の行動についても記している。

 〈万次郎はしばしば、将軍から相談を受けまた彼はアメリカ人をたいへんよく助けた。けれども、彼はある考えから江戸のアメリカ公使には決して近づかなかった。嫉妬深い日本人によって不利につながるようなことは、どんなことでも公にしたくなかったのである〉

 開国を巡って日本は騒然となるが、その実態は激しい権力闘争、政権抗争だった。「開国」の意義や目的の論争とは次元の違う争いに巻き込まれまいと、万次郎が警戒していたことが分かる。ようやく帰ってきた祖国が内部抗争に走るのを、万次郎はどんな思いで見ていたのだろうか。

 

 【〈〉内は中濱博著『中濱万次郎』より引用しました】

「海の駅から」⑮

咸臨丸が浦賀を出港する前日の日誌に、ブルック艦長はこう記している。

 〈私には万次郎が誰よりも日本の開国に貢献した人物であるように感じ取られた〉(『中濱万次郎』、中濱博)。

 日本の開国貿易を決定した日米和親条約と日米修好通商条約。この二つの条約の日米交渉で、万次郎は一度も通訳を務めていない。

 韮山代官・江川太郎左衛門が、交渉の場に万次郎を同席させようとした。しかし幕府幹部が「英語のできる万次郎が、米国に有利な通訳をしかねない」と反対し、交渉はオランダ語で行われた。日本人通訳のオランダ語がひどくお粗末で、交渉が難航した。

 そうした経緯があり、開国前後の日米交渉に、万次郎は直接携わっておらず、公式の記録にも万次郎の名前はない。ブルック艦長も、条約締結の交渉にはタッチしていない。

ではなぜ万次郎を〈開国に貢献した〉と記したのか。実際には、開国の交渉に万次郎が深く関わっていたからだと考えられる。

 ペリー艦隊が最初に来航した5カ月後に、幕府は万次郎を土佐から江戸に呼び出し、幕府直参の地位を与えた。万次郎が見聞、経験した米国の情報と英語の知識が必要となり、破格の処遇をしたのだ。 

その万次郎を日米交渉に起用しない方がおかしい。公的な交渉の場からは万次郎を外したけれど、幕府は密かに設定した日米交渉の場で、万次郎を通訳だけでなく実質的な交渉係として起用したと推測される。

オランダ語で行われた公式の交渉より、万次郎を介して英語で行った交渉の方が、はるかに日米両国にとって有効かつ友好の成果があった。その事実をペリー提督、ハリス領事など日本に来ていた米国人は承知しており、万次郎を高く評価した。ブルック艦長が、〈誰よりも開国に貢献した人物〉と書き残した真相が見えてくる。

 

しかし、万次郎の果たした役割が明らかになると、万次郎の身辺に危険が及ぶ心配があった。それを気遣いながらブルック艦長は航海日誌を書いている。

「海の駅から」⑭

咸臨丸の日本人乗組員のようすを、ブルック艦長が書き遺している。ブルック艦長を悩ませたのは、日本人乗組員の操船技術の未熟さよりも、規則を守らない、船内を清潔にしない、身分の低い万次郎の言うことを聞かないなどの行為だった。

 しかしその内容は決して悪意のあるものではない。むしろ好意的にとらえようと努力しているふしがうかがえる。その好意の背景にあるのは、万次郎に対する信頼や感謝であり、万次郎の同胞である日本人を非難するのをためらう心理があったのかも知れない。

 ブルック艦長は、江戸幕府や咸臨丸の士官たちにおもねるような立場にはいない。咸臨丸に乗船したのは、木村摂津守に頼まれたからだ。航海日誌も日々の出来事をありのままに記録すればいいだけである。

事実、日誌は客観的な視線で綴られている。それでも随所に万次郎への気遣いが出てくる。万次郎の技術と人柄に寄せるブルック艦長の信頼や思いやりが、伝わってくる。

 その航海日誌をブルック艦長は、「自分の死後50年間公開してはならない」と遺言する。遺族はその遺言を守り、日誌を封印する。そして、ブルック艦長が亡くなって50年後に、ブルック艦長の孫によって封印が解かれ、日誌は1960(昭和35)年に日本に引き渡された。

 この航海日誌で、咸臨丸の太平洋航海の全貌が初めて明らかになった。でもなぜブルック艦長は半世紀にわたる日誌の公開を禁じたのだろうか。

 その理由は、万次郎の存在しか考えられない。日誌の公開によって、万次郎の卓越した航海技術と、日本人乗組員の技術の格差が明らかになり、日本国内で万次郎が窮屈な立場になるのを心配したのも、理由の一つだろう。

 

だが、ブルック艦長がとくに万次郎の身を案じたのは、技術の格差への妬みや嫉みではなく、日本の開国に果たした万次郎の役割が明らかになって、新政府から万次郎が迫害されることだったのではないだろうか。

「海の駅から」⑬

1860(安政7)年2月26日、咸臨丸がサンフランシスコに入港した。38日間の太平洋横断航海だった。日本の遣米使節団を乗せたポーハタン号は、咸臨丸より12日遅れてサンフランシスコに到着した。

 ポーハタン号が遅れたのは、ホノルルに寄港して燃料の石炭を補給したためである。ポーハタン号は船体が大きく装備も重く、波と風の抵抗を強くうける。大時化の海の航海で、予定以上に燃料を消費してしまったのだ。暴風雨の激しさを物語っている。

 世界最大最強の軍艦と言われたポーハタン号が苦戦した大時化を、小さな咸臨丸が乗り切った。ブルック艦長と部下と万次郎のわずか12人で、猛り狂う荒海を克服したのだ。 

その見事な技術、勇気、チームワークを、咸臨丸に乗っていた日本人乗組員は、目の当たりにしていた。咆哮する大海原に翻弄される咸臨丸の中で、地獄の恐怖を味わいながら、自分たちの命がブルック艦長や万次郎たちの腕に委ねられている事実を、徹底的に知らされたはずである。

 だが咸臨丸に乗っていた日本人乗組員は、申し合わせたように口をつぐみ、事実を語ろうとしなかった。船乗りが船酔いや航海技術の未熟さをさらしてしまったふがいなさを、隠しておきたいのは理解できる。でも恩人ともいうべきブルック艦長や万次郎たちの卓越した操船技術への敬意や感謝は、素直に表すべきである。それが武士の精神であろう。

 だが事実を隠そうとしただけでなく、日本人乗組員だけで太平洋を横断したとする記述を、後世に残そうとしている。なぜそれほどまで事実を伝えることを嫌ったのだろうか。

 

 咸臨丸には木村摂津守、勝海舟、小野友五郎、福沢諭吉など、幕末や新政府誕生の動乱期に活躍し、歴史の変遷の立役者になった人物が乗っていた。その人たちにしてみれば、咸臨丸での一部始終が明らかになるのは、決して名誉なことではなかった。しかしそのことだけが、事実をありのまま伝えようとしなかった理由だったとは思えない。

「海の駅から」⑫

咸臨丸が巨大な暴風雨から抜け出したのは、浦賀を出航して10日目だった。海が天までせり上がり、一気に落下してくるような怒涛と狂瀾の中で、ブルック艦長の部下たちと万次郎が、必死に咸臨丸を操った。

 咸臨丸の航海図を見ると、大時化の中にいた10日間、真東に向かうコースを維持し、毎日確実に前進している。昼夜くまなしに荒れ狂う空と海のなかで、11人の米国人と1人の日本人が、冷静に操船し続けたのだ。

 日本人の乗組員はほとんど戦力にならなかった。嵐の海の恐怖と船酔いで萎縮してしまっただけでなく、外洋航海の知識と自覚を欠いていたからである。船上の業務を分担し合い、24時間体制で風と波と位置を観測して船を進める、航海の基本の「当直制度」を全く知らず、理解しようともしなかったのだ。

しかし、日本人乗組員の未熟さを責めても始まらない。幕府は1633(寛永10)年から鎖国政策を強化し、出国はおろか外海に出ることも、大型船の建造も禁止してきた。遠洋航海の出来る船乗りが育つ土壌がなかったのだ。

日本人乗組員にとって咸臨丸の経験は、新しい技術と文化との遭遇であり、即戦力にならなかったことを恥じることはない。日本人乗組員は、往路の後半からしだいに航海技術を覚え、復路の航海で技術を格段に向上させて帰国した。

その事実をありのまま伝えていれば、後世における咸臨丸の太平洋横断の意義と評価は、違っていたはずである。だが事実を伝えなかった。日本人乗組員が遠洋航海の知識と技術に乏しく、咸臨丸を実質的に操船したのは、11人の米国人と万次郎であることを隠してしまう。

隠しただけでなく、米国人の手を借りずに日本人だけで太平洋横断に成功したと、プロパガンダする。そのため史実が長い間にわたって歪められてしまう。

 

事実が明らかになるのは、ブルック艦長の航海日誌が、1956(昭和31)年に公開されてからである。

「海の駅から」⑪

 木村摂津守の意が通り、万次郎とブルック艦長らの咸臨丸乗船が決定した。

 〈このことは、自分たち日本人だけの力でこの壮挙をなしとげようとしていた随行艦の士官たちにとっては決して面白いことではなかった〉(『中濱万次郎』、中濱博)

 万次郎たちの乗船を快く思わなかったのは、士官たちだけではなかった。ほかの乗組員たちも「よそ者の力は借りない」と、露骨に反発した。

 日本人としての矜持や気負いと言えば格好がいいけれど、実体は、外洋航海の難しさや怖さを知らない者の虚勢だった。幕府が選んだ海軍エリートの士官から水夫にいたるまで、文字通り“大海を知らない蛙”の集団だった。

 さまざまな思惑や葛藤を乗せて咸臨丸は、1860(安政7)年1月19日、ポーハタン号より3日早く浦賀港を出発した。出航して2日目に大時化に遭遇し、猛烈な暴風雨と荒波に翻弄され続ける。

 日本人の乗組員はたちまち船酔いとなり、操船はおろか甲板に立つことすら出来ない。日ごとに激しさを増して襲いかかる風と波に恐怖し、命乞いをする者まで出てきた。木村司令官、勝海舟艦長をはじめ士官たちも、船酔いで自室に閉じこもったままである。

ブルック艦長とその部下たちは、冬の北太平洋は強い北西の季節風が吹き、パシフィック・オーシャン(穏やかな海)ではないことを熟知しており、荒れ狂う風と波の中で巧みに咸臨丸を操った。その彼らが、万次郎の操船技術の高さに驚く。

 帆船の歴史やこの時代の船の構造に詳しい草柳俊二さんが、こんな解説をしてくれた。

 「万次郎は米国で当時最高レベルの航海士の正規教育を受け、捕鯨船に乗って実践的な技術と勘を磨いた。軍艦は捕鯨船より安定性のある構造に造られている。そして軍艦は時化を避けて航海することもできる。でも捕鯨船は悪天候の中でもクジラを追って航海しなければいけない」

 

訓練された米国海軍の水兵に勝るとも劣らない万次郎の操船術は、荒波に挑む捕鯨船で鍛えられたものだった。

「海の駅から」⑩

米国の測量艦フェニモア・クーパー号のブルック艦長らが、咸臨丸への乗船を承諾した経緯は、明らかでない。おそらく木村摂津守が、ブルック艦長に咸臨丸乗船を強く要請したのが事実であろう。

 米国に帰国する船を探していたブルック艦長たちを、幕府が咸臨丸に乗船させてやったという見方がある。だがそれはありえない。

 F・クーパー号は米国海軍の測量艦であり、ブルック艦長は米国海軍大尉である。同じ米国海軍の軍艦ポーハタン号が日本に来ていたのだから、F・クーパー号の乗組員は、同胞のポーハタン号に乗って帰国した方が、万事好都合だったのだ。

 『中濱万次郎』(中濱博、富山房インターナショナル)に、次のような記述がある。

 〈一月十六日、ブルックはじめ、旧フェニモア・クーパー号の乗組員のうち十一人のアメリカ人が横浜で十二時頃に咸臨丸に乗り込んだ。この十一人はブルックの気に入りの人たちで、他の者はポーハッタン号に乗った〉

 ブルック艦長はあえてポーハタン号に乗らず、信頼できる部下とともに咸臨丸に乗船したことが分かる。その経緯を推理してみる。

 木村摂津守が万次郎に、日本人だけで太平洋航海が可能かどうかを訊ねた。万次郎は「日本人だけでは難しい」と正直に答え、米国人船員の支援の必要性を述べた。それを聞いて木村は、ハリス米国総領事に相談する。 

ハリスはF・クーパー号のブルック艦長と乗組員の乗船を助言する。万次郎がブルック艦長に会い、太平洋航海の支援と、日本人乗組員を指導して欲しいという木村の意向を伝えた。ブルック艦長がそれを受け入れた。

「万次郎とブルック艦長はこの時の話し合いで、お互い尊敬、信頼できる海の男であることを確信した。それが、ブルック艦長が咸臨丸への乗船を承諾した最大の理由かもしれない」

ジョン・ハウランド号やポーハタン号、咸臨丸など多くの帆船模型を作製、研究してきた草柳俊二さんの、船乗りの心を洞察した情味深い分析である。

 

 

  

「海の駅から」⑨

 木村摂津守は幕府に対し、ジョン万次郎を咸臨丸の乗組員に加えることの必要性を、強く訴えた。万次郎が日本語と英語を通訳できるだけでなく、非常に高度な操船技術、航海技術の持ち主であることを知っていたからだ。

 米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に無人島から救出された万次郎は、米国本土にわたり英語、数学、測量術、航海術、造船技術を学んだ。さらに捕鯨船の乗組員となって技術を磨き、一等航海士にまでなっている。

 4年余にわたる万次郎の捕鯨生活の航海軌跡を見ると太平洋、大西洋、インド洋、南米大陸最南端のホーン岬、アフリカ大陸最南端の喜望峰など、世界の海のほぼ全域におよんでいる。スエズ運河もパナマ運河もない時代に、これほど広域の航海を経験した人間は少ないはずである。もちろん日本人は万次郎だけであろう。

咸臨丸の太平洋横断に、万次郎の技術と経験が必要と考えた木村摂津守の判断は正しい。木村の要求がようやく通り、万次郎が咸臨丸の乗組員に加わることになった。だが航海士としてではなく通訳としてであった。

万次郎が咸臨丸に乗船することに、幕府がなぜ難色を示したのか。『中濱万次郎』(中濱博、冨山房インターナショナル)はこう記している。

〈勘定奉行らの評議では万次郎が同行すると「意外ノ弊害モ生ズベキ懸念」があるので、オランダ通詞を含めて、他の通訳を行かせるべきであるという。しかし、評議の結果、軍艦奉行も行くので弊害を生じることはないだろう、ということで乗船が決まった。このことは、万次郎をよく見張っていろということで、後にいろいろなことでこの「監視の目」が邪魔になる。「意外ノ弊害」とは、まだ、万次郎がアメリカ側に有利な通訳をしないか、あるいはスパイをしないかという疑いをもたれていたことを指す〉

開国までの日本の“外国語”はオランダ語であり、それにあぐらをかいてきた幕閣や通詞たちが保身のために、万次郎の乗船に反対したようすも伝わってくる。

 

 

「海の駅から」⑧

 米国政府が提供した軍艦・ポーハタン号に乗船して、日本の遣米使節団が米国に向かう。その使節団を咸臨丸に「護衛」させるというのが、幕府が出した政策だった。

 ポーハタン号は米国海軍が誇る最新鋭の軍艦である。日本に何度も来航し、ハワイ諸島、琉球諸島に補給基地を築いており、太平洋航路はいわばホームグラウンドである。

乗組員は操舵、操帆、天測、気象、砲撃などの優れた技術と知識を持つプロたちと、指揮と規律で行動することを訓練された水兵たちである。おそらく当時の世界最大最強の軍艦であろう。排水量が3765トンもあった。

一方の咸臨丸は排水量620トン、ポーハタン号の6分の1である。士官の乗組員は海軍伝習所で教習を受けてはいるが、遠洋航海の経験はない。水夫、火夫と呼ばれた乗組員たちは、外洋航海の経験がないだけでなく、蒸気機関のスクリュー船に乗り込むのが初めてという者も、少なくなかった。

ポーハタン号と咸臨丸は、質量ともに格も桁も違っていた。その咸臨丸に「護衛」させるというのだ。現場を無視して権威にこだわり続ける幕閣たちの、不遜さが透けている。

そうした無責任な策に危惧を募らせた人物がいる。咸臨丸の司令官に任命された木村摂津守である。木村は長崎海軍伝習所の「取締」の職に就いたことがあり、伝習生たちの実力、能力がどの程度か見当がついた。

木村は日本人の乗組員だけでの太平洋航海は、無理と判断した。無事に太平洋を横断して、幕府の面目を保つためにも、外洋航海に熟練した船乗りを同乗させなければいけないと考えた。

 

木村は、横浜に滞在中の米国海軍大尉ブルック艦長とその部下とジョン万次郎を、咸臨丸の乗組員に加えるために動き出す。ブルック艦長が率いる米国の測量船フェニモア・クーパー号が、横浜沖に停泊中に時化の波をうけ座礁し、船体が破損し航海不能になり、ブルック艦長と乗組員が、米国に帰る船を待っている時だった。

「海の駅から」⑦

 日本の使節団が乗るポーハタン号に随行する幕府の船が、朝陽丸から観光丸に、そして咸臨丸に変更された。出航前になぜ慌しく変更したのか。諸説があり、いくつかの推測も成り立つけれど、確証はない。

 記録によると、朝陽丸は、幕府がオランダに発注した軍艦。全長49メートル、全幅7・27メートル、排水量300トン、3本マスト、100馬力蒸気機関。日本に来たのは1858(安政5)年である。

 観光丸は、1855(安政2)年にオランダ国王から江戸幕府に贈呈され、長崎海軍伝習所の最初の練習艦となった。全長65・8メートル、全幅9メートル、排水量353トン、3本マスト、150馬力蒸気機関。

 咸臨丸は、朝陽丸と前後して同じ造船所で建造された軍艦。全長49メートル、全幅8・74メートル、排水量620トン、3本マスト、100馬力蒸気機関。朝陽丸より1年早く日本に到着、海軍伝習所の練習艦に使用された。

 朝陽丸、観光丸、咸臨丸はいずれもオランダで建造され、オランダ人船員によって大西洋、インド洋を経由して日本に回航されてきた。従って、3艦とも太平洋航路を横断していない。

 一方、咸臨丸の乗組員はどのように編成されたのだろうか。幕府は軍艦奉行並の木村摂津守喜毅を軍艦奉行に昇格させ、咸臨丸の司令官に任命した。乗組員士官には、海軍伝習所や軍艦操錬所の関係者や卒業生などが選ばれた。その中には、長崎海軍伝習所第一期生の勝海舟もいた。

 だが伝習所の訓練は、オランダ人教官による軍艦操縦の基本習得が中心だった。実践的な航海技術を体得し、荒海の恐怖に耐えられる心身をつくる本格的な遠洋航海訓練は行っていない。

 

それでも幕臣たちは日本独自の船と日本人乗組員で、太平洋を横断できると考えていた。しかしその実態は、太平洋横断の実績や経験がない船と乗組員という状況だった。そうした幕府の拙速な対応が、随行艦の選定の二転三転に現れている。

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