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2015年11月の記事は以下のとおりです。

「海の駅から」24

 遣米使節団の随行艦の候補になった「観光丸」「朝陽丸」を掲載している百科事典は、非常に少ない。「咸臨丸」はどの百科事典にも載っている。太平洋横断という歴史的な出来事が、咸臨丸の知名度を抜きん出たものにしたのだろう。

では咸臨丸はどのように紹介されてきたのだろうか。『世界大百科事典』(平凡社)の1973年版から抜粋してみる。

 〈本船は1860年(安政7年正月)、日米通商条約批准書交換遣米使節、外国奉行新見豊前守以下80余名の護衛と実地操練のため、日本の汽船として最初の太平洋横断を遂行した。司令官海軍奉行木村摂津守、艦長勝安房以下日本人のみ90名が乗り組み、航海37日を要して同年2月22日サンフランシスコに着き(略)〉

 遠洋航海技術の未熟な日本人乗組員に代わって、咸臨丸を操船したブルック艦長とその部下と万次郎についての記述はない。〈日本人のみ90名〉とあり、ブルック艦長ら12人の米国人が乗船していたことも否定している。

 だが、同じ『世界大百科事典』の2007年改訂新版では、内容が変化している。

 〈1860年(万延1)1月、新見正興らの遣米使節に護衛艦として随行し、海軍奉行木村喜毅(芥舟)監督の下に艦長勝義邦(海舟)とアメリカ士官ブルックJohnM・Brookeらの操縦で、太平洋を横断した〉(抜粋)。

 ブルック艦長の航海日誌の公開などによって、咸臨丸の太平洋横断の実態が明らかになり、記述が改められたのだろう。咸臨丸は、日本の小説やドラマに何度か登場してきた。でもフィクションの世界である。

 

 外洋で要求される操船技術の高さや、海洋気象などの視点から考察すれば、外洋航海の技術や経験のない集団が、北西の季節風が吹き荒れる真冬の太平洋を横断することは、現実的に無理との答えが出るはずである。でもなぜか、そうした考証はほとんどされてこなかった。新しい視点での「咸臨丸再考」があってもいい。

「海の駅から」23

日本の遣米使節団を運ぶポーハタン号に随行する日本の船が、朝陽丸から観光丸そして咸臨丸に変更されたことは前述した。3隻ともオランダの造船所で建造された軍艦で、1855―58年の間に相前後して日本に就航している。

 いずれも3本マストで、朝陽丸と咸臨丸はスクリュー船、観光丸は外輪船である。外輪を回すのに強い力を必要とするため、エンジン馬力も全長も全幅も観光丸が一番大きい。

 朝陽丸と咸臨丸は、いわば双子の兄弟船でほぼ同サイズだが、全幅は咸臨丸の方が147センチ広い。ではなぜ最終的に、咸臨丸が随行艦に選ばれたのか。

 その理由は明らかにされていないけれど、船の構造や排水量にあったのではないだろうか。記録を見ると、船の長さが一番短い咸臨丸の排水量が一番大きく、朝陽丸、観光丸のほぼ2倍となっている。どうしてなのだろうか。草柳俊二さんにその疑問を解いてもらった。

 「当時、船のトン数表示は統一した基準がなかったので、この3隻のトン数が同じ基準のものか疑問です。でも、外輪船の観光丸は、蒸気機関の両側に外輪を回転させる設備がつくので、船体幅は大きくなる。さらに外輪船は河川や運河、湾の奥まで入り込めるように喫水を浅く造ってあり排水量が小さくなる。咸臨丸の船体幅は朝陽丸より2割ほど大きく、喫水も深いと考えれば、2倍の排水量の差になってもおかしくない」

 「ブルック艦長も万次郎も、幕府の軍艦で太平洋を横断するのは至難であることを判っていたはずです。咸臨丸が、外輪船より波の抵抗が少ないスクリュー船の構造であること、他の2隻より排水量が大きいなどを考えて、二人は幕府に咸臨丸を薦めたのだと思う。それが太平洋横断の成否を分けた非常に重要な選択になったような気がします」

 出港間近になって船が変更され、荷物の積み替えを命じられた水夫たちは、万次郎とアメリカ人が余計なことを言ったからだと、口々に二人を非難した。

 

しかし、排水量3765トンの最大最強の軍艦・ポーハタン号が、大苦戦したほどの嵐に遭遇したのだから、朝陽丸、観光丸では沈没していた可能性が高い。万次郎とブルック艦長の的確な判断が、咸臨丸の太平洋横断成功につながったのだが、その事実を明治政府も乗組員たちも後世に語り継ごうとしなかった。

「海の駅から」22

土佐清水市のジョン万次郎資料館に展示されている咸臨丸の模型を、草柳俊二さんはアフリカのナイジェリアで作製した。草柳さんは国際プロジェクトのエキスパートである。高知工科大学の教授になる前は、世界各地の国づくりに携わる日々を送っていた。

草柳さんがナイジェリアに行ったのは、8000ヘクタールの原野を切り拓いて、5000ヘクタールの水田を造るためである。灌漑用水路総延長800キロ、農道総延長600キロの巨大な灌漑開発事業のプロジェクト・マネージャーとして赴任した。

人工衛星が撮影した写真に鮮明に映るほど、途方もなく広い工事現場を指揮する一日が終わると、自室に戻り指先に神経を集中させて咸臨丸を組み立てた。模型材料は市販のキットを日本から持って行った。だが草柳さんはある工夫をした。

「主用材は日本製のキットを使用したが、他はできる限り現地で得られる木材に切り替えて使うようにした。水田開発のために伐採した木々の中から、部材を選び、乾燥させ、加工して、模型に組み込んでいった」

ジョン万次郎資料館にある咸臨丸は、作製された場所だけでなく、材料もナイジェリア製だったのだ。この咸臨丸の作製を機に、草柳さんは海外プロジェクトに携わるたびに、現地の樹木を組み入れながら帆船模型を作り続けるようになった。

コロンビアの水力発電工事、インドの港湾工事など、プロジェクトの現場が変わるごとに、それぞれの国の香りがする帆船模型が誕生した。どの国のどんな木が、どの帆船のどの部分に使われているか、それを知っているのは草柳さん一人である。

「自分で作製した帆船模型を見つめていると、現地でのさまざまな出来事が浮かびあがってくる」

草柳さんだけが味わえる精神の贅沢である。 

 

万次郎の航海日誌のカバーに、咸臨丸の帆布が使われているという。それ以外に咸臨丸に使われていた部材は、遺されていないらしい。

「海の駅から」21

 ジョン万次郎こと中濱万次郎は、1898(明治31)年1112日、71歳で亡くなった。世界の海の荒波を越えてきた人生と対照的に、万次郎の最期は穏やかだったという。

 晩年の万次郎に、開国維新の史実や明治政府への論評を聴き出そうと、新聞記者などが面会や質問を試みた。普段は話し好きな万次郎が、そうした質問には寡黙を通した。万次郎の死と一緒に消えた史実や真相が、あったはずである。

 万次郎が米国から帰る咸臨丸で書いていた英文の航海日誌の一部を、切り取った行為と重なってくる。当時の日本に英文を読める日本人はほとんどいなかった。明治時代になって、英語を理解できる人が出始めたころに、切り取ったのではないだろうか。万次郎自身のためより、後世の子孫たちに迷惑が及ばないよう配慮したように思われる。

万次郎に愛情と教育を注ぎ、一等航海士にまで育ててくれたホイットフィールド船長。咸臨丸の太平洋横断航海の出会いから、お互い尊敬し合い友情を貫いたブルック艦長。物心両面で支援してくれたデーモン神父。万次郎はこの三人の米国人を、心底から信頼し、終生恩義を感じていた。 

幕末、維新の波乱を巧みに乗り切り、新政府の椅子に座った人たちに、万次郎は心を開けない何かを感じていたのかも知れない。万次郎の足取りを調査してきた草柳俊二さんの話も、暗示的である。

「万次郎が幕府の命を受け函館に行っていた時期と、函館で西洋型スクナー船・函館丸が建造された時期が重なる。万次郎が関わっていたはずですが、その記録がない。富士市沖で沈没したロシアのディアナ号の乗組員を本国に帰すための船を、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が指揮をして建造した。韮山塾の助手だった万次郎が手伝ったと考えるのが自然です。でもその記録が全く残されていない」

 

少し謎めいている。ジョン万次郎資料館に展示されている咸臨丸の模型は、実はアフリカで製作された。こちらの話も、謎めいていて面白いではないか。

「海の駅から」⑳

 明治政府の基盤が固まるにつれて、新政府の中枢に就いた人たちに都合のよい“維新のシナリオ”が創られていった。江戸幕府の封建制度に反対する若き志士たちが討幕運動に立ち上がり、国際社会の仲間入りを果たす開国を実現し、新政府を樹立し近代日本を開いたという筋書きである。

 しかし、米国から開国を迫られた時に、誰もが声高に攘夷を叫ぶだけで、開国を主張した人物などほとんどいない。ましてや、当時の国際情勢を知る人物など一人もいなかった。

 世界中の海で米欧の国々の船が活動していることを説明し、開国の意義を幕府に進言したのは万次郎だけである。その万次郎の名前が、維新のシナリオから抜け落ちている。

 草柳俊二さんの次の言葉で、合点がいく。

 「航海士が必要な知識と経験は航海術だけではありません。航海中の船は一つの国であり、当時の航海士には行政、司法、外交、商取引や戦闘など、幅広い能力と見識が求められていた。これは基本的に今も変わりません。万次郎は有能な航海士だった。明治政府の立役者たちは、彼が備えていた航海士としての知識や技術や思考力の奥深さに驚き、脅威を感じたと思われます」

 新政府の官僚たちが、万次郎の能力を認めながら、万次郎を敬遠した理由が見えてくる。彼らは航海士を船頭と同じレベルで考えていたのかも知れない。

そんな新政府を風刺するように、開国と万次郎をモチーフにした歌舞伎の芝居が作られた。1888(明治21)年、万次郎が61歳のときである。

 芝居では、万次郎がペリーの黒船を呼んだと思い込んだ4人の浪士が、万次郎を暗殺しようと襲う。万次郎は拳銃で敵の気勢を制し、米国の進んだ文明を話し、日本の進むべき道を諭す。浪士たちは「外国の事情を聞き得心した」と詫びる。

 

 万次郎役を市川左団次が演じたこの芝居が、興行期間を延長するほど大当たりした。だが急に公演が中止になった。裏で政府の力が動いたことは、誰もがわかっていた。

「海の駅から」⑲

 万次郎は米国に永住することもできた。彼の航海術や捕鯨術の優秀さは広く知られ、人脈もあったから、米国で暮らしていく基盤が十分にあった。

 その万次郎が、処罰を受けるのを覚悟してまで、鎖国中の日本に帰る決心をしたのはなぜなのか。米国における万次郎の足跡や資料を研究してきた草柳俊二さん(高知工科大学大学院教授)は、次のように分析する。

 「万次郎を帰国に駆り立てた最大の理由は、日本が開国すれば捕鯨事業によって経済発展を図れることを、日本に伝えたい一心の使命感だったと思う。当時の捕鯨事業が国際ビジネスとして非常に高い利益を上げていることや、捕鯨資源の豊富な海に囲まれている日本が、有利にビジネスを進められることを、万次郎は熟知していた。彼の使命感は、日本の経済発展を願う祖国愛だったかもしれない」

 帰国した万次郎が、米国事情を知りたい幕府の要請に、積極的に協力したのもうなずける。万次郎の居た米国は、工業文明の先端を走っているだけでなく、民主的な政治の仕組みを持った国だった。

 そして、人々が伸び伸びと生きていた。国にも人にも勢いがあった。日本が開国して、米国の活発な経済活動や自由な気風を取り入れることを、万次郎は強く期待した。

 日本は開国、大政奉還、新政府へと進んだ。だが新しい支配体制は、各藩に自治を任せていた幕藩体制よりも、はるかに中央集権の強いもので、民主的な政治の仕組みから乖離していた。

 新政府はまるで憑かれたように欧米の工業文明を取り入れていく。でもその目的は軍事力の強化にあり、民間の自由な経済活動を抑え込んだ。万次郎の期待はしだいに失望に変わっていった。

 

 「さまざまな国や地域を見て回った経験のある万次郎の頭の中には、日本がどのように進むべきか、かなりはっきりしたイメージがあったと思う、だから明治政府は万次郎を敬遠した。万次郎も明治政府と距離をおいて余生を過ごしたのです」

「海の駅から」⑱

 ジョン・マーサー・ブルック(ブルック艦長)は1906年12月、80歳で亡くなった。「私の死後50年間、咸臨丸の航海日誌を公開しない」という遺言が、遺族によって守られた。

そして1956(昭和31)年、航海日誌が米国で公開され、日本の軍艦・咸臨丸の太平洋航海の実態が、明らかになった。日誌の内容は、それまで知られていない史実の発見として注目された。

咸臨丸の太平洋横断を終えたブルック艦長が、当時の米国海軍長官に報告書を提出している。その報告書には、咸臨丸が嵐に何度も遭遇し、困難な航海であったことが記述されている。

さらに、万次郎が航海士としても人格的にも、非常に優れた日本人であると報告している。しかし、ブルック艦長が悩まされ続けた日本人乗組員について、非難する記述はいっさいしなかった。

だから日誌が公開されて、日本の乗組員が外洋航海技術をほとんど身につけていなかったことが、初めて明らかになった。「ブルック艦長とその部下と万次郎がいなければ、咸臨丸は遭難していた」と報じた米国のメディアもあった。

ブルック艦長の航海日誌は、1960年(昭和35)年に日本に提供された。咸臨丸が太平洋を横断した年から、ちょうど100年が経っていた。その1世紀の間に、日本は大変貌し、開国騒動や幕末動乱は、遠い歴史の物語となっていた。

航海日誌が封印されていた半世紀の間に、日米両国の関係も大変動した。日本は欧米列強に負けまいと富国強兵に走り、ついに米国に宣戦布告、徹底的な敗北をする。米軍の占領下に置かれ、米国の援助を受けながら、復興の道を歩み始める。

 

1960年は、日米安保改定条約をめぐり、日本中が騒然となった年である。東西冷戦の中で、米国は西側の盟主の道を走り、日本は経済的、物質的な豊かさを求めて走り出した年だった。日本と米国ふたつの国が歩んだ100年の時間の不思議さを改めて思う。

「海の駅から」⑰

米国から日本に戻る咸臨丸の中で、万次郎は英文で航海日誌を書いていた。その日誌は中濱家に保管されている。万次郎の曾孫の中濱博氏が著書『中濱万次郎』で、航海日誌が〈何のためかページが故意に刃物で全体の半分くらい切り取られている〉と記している。

誰が切り取ったのだろうか。切り取られた部分には何が書かれていたのだろうか。中濱氏はあえて触れていないけれど、万次郎本人の手によると考えるのが自然であろう。

ブルック艦長は、咸臨丸の航海日誌の公開を50年間禁止した。万次郎は、航海日誌の一部を削除した。二人とも自分の日誌が、当時の日本人の目に触れるのを警戒したのだ。

攘夷思想を盾にした権力闘争が激化する国内で、外国を知っている万次郎は、微妙な立場に立たされていた。咸臨丸の航海を終えた万次郎が、日本に寄港した米国船を訪ねたというだけで、海軍操練所の教授方を免職になっている。

刺客にも何度か襲われた。国際人・万次郎を“国賊”とする尊皇攘夷派や保守主義の手合いが、万次郎を暗殺しようと襲撃した。いずれのときも、万次郎を警護していた剣の達人が、一瞬で刺客を倒し万次郎を守った。

その警護人が幕府の意を受けて、万次郎の行動を監視する役目を兼ねていたというのだから、ややこしい。260年続いた幕藩体制が終焉する前夜の、騒擾とした世相だった。

外国の人と文化の排斥を叫んでいた攘夷派が、明治政府が誕生したとたん文明開化派に変身する。鬼畜米英を叫んでいた人たちが、敗戦の一夜明けると連合軍歓迎に変身したのと同じである。官僚、学者、教師など知識階層と言われる人ほど変り身が速いのは、明治も昭和も変わらない。

ブルック艦長と万次郎が警戒したのも、変り身の速さで責任を転嫁する日本の支配層の、理不尽な仕打ちだったのではないだろうか。 

 

近代史の日米関係を見ると、ブルック艦長が日誌を封印した50年間は、実に絶妙な時間だったことに気がつく。

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